日本の教育システムというフィルターを通ってくると、学生を卒業する段階で
『努力することは素晴らしい』
という価値観を自然と植えつけられることになります。
個人的には、これは1つの洗脳だと思っていますが、この努力が素晴らしいことに対して違和感を感じている人はほとんどいません。
もちろん努力することは良いことだとは私も思っています。
ただ、1つだけはっきりとお伝えしたいこと。それは
『努力は意識するものではない』
ということです。
いつも通りよく分からない謎の言葉から始まりましたが、ここではなぜ私が努力に対してそこまで執着していないのか?一般的な努力に対する認識が間違っているのか?その点について深くまで掘り下げていきたいと思います。
努力というものは、一つの面だけ見ると素晴らしいものですが、別の角度から見てみると都合よく使われていることが今回の記事で理解していただけると思います。
好きなところから読んでください
努力すること=正しいことだと思ってませんか?

まず、あなた自身は努力に対してどのようなイメージを持っているでしょうか?
おそらく、一般的な価値観を持っていれば
- 努力することは素晴らしいこと
- 努力=正しい
- 努力できる人は成功できる
このような認識を持っているはずです。
もちろん私もこの認識に対して異論を唱えるつもりはありません。
しかし、これはあくまでも努力を1つの面から見ただけであり、本質を捉えているとは言えません。
言ってしまえば
『ジョギング=痩せる』
このような価値観だけ持ってジョギングをするようなものです。
実際、ジョギングをすれば痩せることも事実ですが、他にも
- 脳の活性化
- 心肺機能が強くなる
- ストレス発散
- 足の怪我のリスク
などが挙げられます。
あらゆる面から見るとメリット・デメリットが見えてくるのですが、努力という言葉に関しては、ほとんどの人が努力=正しいこと・素晴らしいことという面しか見ようとしないのです。
これは結構危険な思考です。
努力に勝る才能はないことは事実だけど勘違いしている人も多い

この言葉は名言としてよく使われますが、この言葉の捉え方を間違えると、結局努力すること=正しいという価値観を植え付けられるだけになってしまいます。
努力できるというのは紛れもなく
『1つの才能である』
ことは間違いありませんが、その才能があるからといって努力することが正しいという結論にはなりません。
例えば、プロ野球選手になりたいと思った場合、
- 努力できる才能を持っている人
- 努力できる才能を持っていない人
この2人の選手がいた場合、どちらがプロになれる可能性が高いのかは言うまでもありません。
ただ、努力というのはあくまでも手段でしかないため、自分が努力していることを意識してしまうと、いつの間にか努力する自分は正しいという価値観になってきます。
そもそも、本当にプロ野球選手になるような人たちは、自分が努力しているという意識を持つことはありません。
『プロ野球選手になる』
その明確な目標があるため、それを実現するための手段として何をすべきか?ここを逆算して行動しているだけなのです。
つまり、努力するという考え方ではなく
『理想の未来を実現するなら当たり前にやること』
だと思っているのです。
実際、努力することに意識を向けている人というのは第三者からの視線を気にしがちですが、努力を無意識的にやっている人は、第三者の視線なんて全く意識せずに淡々と当たり前のことをこなしているのです。
この違いはかなり大きなものになります。
『努力』という言葉が便利に使われる世の中

私があまり努力という言葉を使いたくない理由も、結局はここです。
実際、努力することに関して良い表現をしている人たちというのは、努力に対して意識を向けていることがほとんどです。
いわゆる
『意識高い系』
と言われる人たちです。
もちろん意識が高いことは良いことだとは思いますが、先ほどもお伝えした通り、本当に伸びる人たちは努力を無意識的にやっています。
努力に意識を向けてしまうと
『頑張って努力をしていることをアピールする人は素晴らしい!』
風潮が強くなるため、努力していない人たちがなんだか悪者のように扱われます。
別に努力をしてもしなくても、自分の人生なんだから好きに生きたら良いのに、この風潮が強くなると、身内の人から
『あの人はあんなに頑張っているのに、あなたはだらしないな!』
と比較対象を出されて否定されたりするのです。
人と比較される人生ほど無意味なものはありませんが、努力に意識を向ける風潮が強くなると、何も悪いことをしていない人たちが悪い影響を受けたりするのです。
何度も言うようですが、本当に努力をしている人たちは努力に意識を向けていませんからね。
努力している時点で負ける可能性が高い明確な理由

もし実際に頑張っていることをアピールする人たちがあなたの周りにいたら、その人の人生を追いかけてみてください。
本当に成功する人も中にはいますが、努力に意識を向けてアピールする人たちの多くは
『あまり良い結果を出すことができない可能性が高い』
はずです。
例えば、男性が努力をアピールすれば、周りの女の子や彼女・友達から
『頑張っている人ってかっこいい〜!素敵〜!』
と言われるかもしれません。
しかし、その努力をアピールしないと継続できない努力というのは、途中で必ずエネルギー切れを起こします。
なぜなら
『理想とする未来のために努力しているのではなく、今この瞬間の欲望を満たすための努力』
だからです。
実際に努力をして大きな結果を出し、世の中の人たちに認められるくらいの実力をつける人たちが意識していることはこのような努力とは全く違う考え方です。
努力しているように見えるだけで楽しんでいる
本当に何かに挑戦している人・没頭している人というのは、基本的に
『自分の中で完結する努力』
をしています。
つまり、周りにどう思われようが関係なく挑戦している人たちですね。
いくら周りからバカにされようが・否定されようが・揚げ足を取られようが全く気にすることはありません。
そして努力していることを露骨にアピールすることもないため、周りからは
『そんなことやって何が楽しいの?』
と思われることもあります。
これは大きな結果を出した偉人のエピソードなどを見ると分かりやすいですね。
周りから見たら変人だと思われるようなことであっても、自分にとってはそれをやっていることが楽しくて仕方がないため、周りの目なんか気にせずに、とにかく突っ走っていくのです。
『努力に勝る才能なし』この名言の本質について

努力について色々とお話ししてきましたが、結局のところ、努力に対してよく使われるこの名言というのは
『無意識的にできる努力に勝る才能なし』
というのが正しい表現だと私は考えています。
努力に意識を向けてしまうと、結局努力することによって何かしらの短期的な欲望を満たすことに時間を使うようになります。
- 努力をアピールして、周りの人から褒められたい・認められたい
- 努力することはかっこいい人間のやること
- 努力することで自分の価値を上げられる
このように第三者の視点を意識した努力ばかりしてしまうと、承認欲求を満たすことができない行動がなかなかできなくなります。
逆に無意識的にできる努力であれば、それが全て自分自身に返ってくることになるため、努力することによってぐんぐんステージを上げることができます。
多くの人は、前者の努力を努力として認識しがちですが『努力に勝る才能なし』この言葉の本質的な努力というのは間違いなく後者のものになるため、それだけは必ず理解しておきましょう。
大切なのは『努力は手段でしかない』ことを理解すること

努力なんてものは、結局やってもやらなくてもどっちでも生きることはできますし、自分が努力だと思っていることであっても、それが本気で努力している人からしたら
『ただの準備運動レベルのこと』
であることも多いです。
例えば、毎日朝5キロ走ることがルーティーンとなっている人からしたら、毎日走ることは努力には含まれません。
しかし、全く走る習慣のなかった人が、ある日突然朝に5キロのジョギングを始めたら、それは間違いなく『努力』として認識するはずです。
努力と呼ぶか日常と呼ぶかは人それぞれ違いますが、最終的に自分の行動を無意識レベルに落とし込めた人ほど強いものはありません。
これがまさに
『努力に勝る才能はない』
を実現した人たちの姿だと思います。
これから何かを始める場合には、努力に対して意識を向けるのではなく、いかにして努力を無意識レベルまで落とし込むことができるかを考えてみてください。
そうすると面白いくらい結果を出すことができますよ。
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まとめ

努力というものをどこの角度から見るかによって、その解釈が大きく変わってくることは理解していただけたでしょうか?
一般的に浸透してる努力という言葉は、結局1つの面からしか見ていません。
角度を変えて見ると、実は努力自体に意識を向ける必要がなくなります。
努力するのも良い人生ですし、努力しないのも良い人生です。
この言葉の良い面だけに洗脳されている人から色々なことを言われるかもしれませんが、そのような場面に出くわしたら今回の内容を思い出してみてくださいね。